本阿弥切・巻子本(古今和歌集巻第十四 恋歌四)第一紙拡大         戻る 本阿弥切 一覧へ

                                    写真をクリックすると拡大画面になります 昭和初期模本
青グレー・瓜唐草具引剥奪唐紙料紙一葉分

本阿弥切 部分 具引剥奪唐紙 青グレー 『瓜唐草』 
瓜唐草(うりからくさ)(相生唐草)
 巻子本本阿弥切
 (古今和歌集巻第十四 恋歌四)

 第一紙

解説及び
使用字母


清書用 臨書用紙 本阿弥切 青グレー 『瓜唐草』
清書用 青灰
 具剥奪唐紙『瓜唐草(相生唐草)』(元は具引唐紙が経年使用により部分剥落したもので、具引剥奪唐紙ともいう。)

 
歌番号は元永本古今和歌集での通し番号(歌の一部が異なっている場合も同じ番号で記載)         
( )内の歌番号は小松茂美氏監修「本阿弥切古今集」(二玄社発行)の通し番号(類推含む)
         かな                          使用字母        解釈(現代語訳)


        だいしらず
             よみびとしらず
683                    
(677)
 みちのくの あさかのぬまの 花かつみ
 見る見る人に こひやわたらむ


684                    (678)
 あひみずは こひしきことも なから
 まし、おとにぞ人を きくべかりける


             きのつらゆき
685                    (679)
 いそのかみ ふるのなかみち なかなかに
 みずはこひしと おもはましやは


          ふぢはらのとしゆき
686                    (680)
きみといへば みまれみずまれ ふじのねの
 めづらしげなく もゆる我みを


             いせ
687                    (681)
 ゆめにだに みゆとはいはじ あさなあさな

     太意之良数
             與美飛止之良寸
683
美知乃久乃 安左可乃奴万乃 花可川美
見留~人爾 己比也和多良无


684
安悲美寸者 己悲之幾己止毛 奈可良
末之、於止爾曾人遠 支久部可利希流


             支乃川良由支
685
以所乃可美 不留乃奈可美知 那可那可仁
美寸者己日之止 於毛盤万之也盤


          不知者良乃止之由支
686
支美止以部盤 美万禮三寸万連 不之乃年乃
女川良之个那久 毛由留我三遠


             伊世
687
由女爾多爾 美由止者伊者之 安左那安左那
 



 解説右側は

 使用字母


左側のひらがな中漢字の意味の通じるものは漢字で表記





















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「爾」は「尓」とすることも。
「个」は「介」とすることも。


                 現代語訳                   解釈      解説及び使用字母
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    お題不明              詠み人不明

683
「陸奥の安積の沼の花がつみ 見る見る人に恋や渡らむ」
陸奥の安積の沼の花勝見のかつみではないが、逢っていながら見ている人に恋し続けるのであろうか

684
「相見ずは恋しきことも無からまし 音にぞ人を聞くべかりける」
対面する事が無ければ恋しく思うことも無かったであろうに、噂だけにこそあの人のことを耳にするべきだったのだ。


                       紀貫之

685
「石上布留の中道中々に 見ずは恋しと思はましやは」
布留の中道は中途半端な状態で、出会わなければ恋しいと思ったであろうか、いや思わなかった。


                      藤原敏行

686
「君と云えば見まれ見ずまれ富士の嶺の 珍しげなく燃ゆる我が身を」
君と云うと会っていようと会わないでいようと富士の高嶺が燃えている様に、何時も燃え上がる私の心身ですよ。


                      伊勢

687
「夢にだに見ゆとは云はじ朝な朝な、
我面影に恥づる身なれば
夢にさへも見てしまうとは言わないですよ、毎朝のこと自分自身の容姿に恥ずかしく思う身なので。



683
(陸奥の安積の沼の花勝見の且つ見ではないが、一方では逢っていながら見ている人にまた一方では同時に恋し続けるのであろうか)との意。

花がつみ;花勝見。水辺に生える真菰の仲間の水草。「且つ」に掛る枕詞としても用いる。かつみ草とも。

684
(若しも出会わなかったなら恋い慕うことも無かったでしょうに、噂だけにこそあの人のことは聞いて置くべき事だったに違いない。)と成就しない恋への逢ってしまった後悔を詠んだ歌。

685
(二人の出会った布留の中道は却って二人の距離が中途半端な状態で、仮に出会っていなければこんなにも切ない程に心惹かれる事に為ったでしょうか。否…。)との意で遣る瀬無い気持ちを詠んだ歌。

ましやは;もし…なら…だったでしょうか。否…ないでしょう。現実仮想を表す「まし」に終助詞「や」更に係助詞「は」が付いた形で反語の意を表す。

686
(あの思い人の事となると会っていようと合わないでいようと、富士山で滅多に無い事ではなく煙を出して燃えているように、何時でも恋に焦がれている私の恋心ですよ。)との意。

見まれ見ずまれ;「見も有れ、見ずも有れ」の約。見ようが見まいが。


687
(決してお会いしたいなどとは言いませんが、思いだけ寄せておりますよ、毎朝のことですが自分自身の容姿に恥ずかしく思う身でございますので、全く自信が有りませんですから。)との意。

夢に…云はじ;決して…言わない。少しも…言わない。下に禁止・打消しの表現を伴った時の用法。「言はじ」は「言ふ」の未然形「言は」に打消しの意思を表す特殊型助動詞「じ」の終止形「じ」の付いた形。


683
「陸奥の安積の沼の花がつみ、かつ見る人に恋や渡らむ」 (公任本古今和歌集・677)
陸奥の安積の沼の花勝見のかつではないが、一方ではこうして逢っている人に他方では同時に恋し続けるのであろうか。

きのつらゆき
紀貫之;平安時代前期の歌人で歌学者でもあり、三十六歌仙の一人でもある。歌風は理知的で修辞技巧を駆使した、繊細優美な古今調を代表している。醍醐・朱雀両天皇に仕え、御書所預から土佐守を経て従四位下木工権頭に至る。紀友則らと共に古今和歌集を撰進する。家集に「貫之集」の他、「古今和歌集仮名序」、「大堰川行幸和歌序」、「土佐日記」、「新撰和歌(撰)」などがある。生年868年~没年945年頃


ふる;「布留」と「触る」との掛詞。布留は石上神宮の有る奈良県天理市布留の地名。「触る」は出会う。関係する。の意。

中道;二人、特に男女の間に通う道。


ふぢはらのとしゆき
藤原敏行;平安初期の歌人で、三十六歌仙の一人。三十人撰にも登場するが知られている歌は全て合わせても28首と少ない。詳細は不詳であるが、古今集中には敏行朝臣と出ていることから、おそらく四位であったろうと推察される。生没年不詳。


687
「夢にだに見ゆとは云はじ朝な朝な、
我思ふ影に外づる身なれば」(元永古今和歌集)
夢にさへも見てしまうとは言わないですよ、毎朝私が思いを寄せる方のお姿に洩れる身の上ですので。
(決してお会いしたいなどとは言いませんが、思いだけ寄せておりますよ、私が恋心を抱いているいる方の御身分に入らない気兼ねする家柄ですのでね。)との意。

はづる;「外る」と「恥づる」との掛詞。




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